So-net無料ブログ作成
■日本の歴史 ブログトップ
前の10件 | -

【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(7)西郷と勝 家近良樹教授に聞く(下)勝のけれん味 [■日本の歴史]

【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(7)西郷と勝 家近良樹教授に聞く(下)勝のけれん味

7回目用江戸無血開城の「点と線」写真=ヨコ
西郷の余韻・大久保の非常識・慶喜の無常識-。縦横に幕末維新史を語る家近良樹・大阪経済大特別招聘教授=京都市(関厚夫撮影)
 幕末維新史研究の第一人者として知られる家近良樹・大阪経済大学特別招聘(しょうへい)教授。本項の締めくくりとして「江戸無血開城」を主導した西郷隆盛や勝海舟、徳川慶喜らに対する忌憚のない人物評を語ってもらった。(編集委員 関厚夫)
西郷の余韻 大久保の非常識
 「西郷の魅力は第一に分かりがたいところでしょうか。そこが坂本龍馬とのちがいで、龍馬にはすっきりとした魅力があります。個人的には、年を重ねるごとに、すっきりとしないものに歴史家として魅力を感じるようになりました。
 西郷の別の魅力として、彼が後世に残した馥郁(ふくいく)たる『余韻』を挙げたいと思います。もうかなり長きにわたって歴史を研究し続けていますが、人間が醸し出す余韻や味わい、薫りを考えた場合、西郷以上の存在はいないように思います。
>>続きを読む

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(6)西郷と勝 家近良樹教授に聞く(上)西郷の離れわざ [■日本の歴史]

【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(6)西郷と勝 家近良樹教授に聞く(上)西郷の離れわざ

6回目用江戸無血開城の「点と線」写真
キーワードは「知足」「離れ技」「点と線」…。西郷隆盛や日本史上の転換点「江戸無血開城」について現代史と比較しながら解説する家近良樹・大阪経済大学特別招聘教授=京都市(関厚夫撮影)
 「我が尽力今日に及びしもの、瓦解に到らしむ。憎むべきの極(きわみ)也」-。慶応4(後の明治元=1868)年5月15日(旧暦)、勝海舟は「幕末日記」にそう刻んだ。この日早朝、新政府軍は上野・寛永寺に立てこもる旧幕府武闘派・彰義隊に対する総攻撃を開始、夕方までに彰義隊は壊滅した。
 それまで勝は、「江戸の治安回復」を理由として水戸に謹慎中の前将軍、徳川慶喜の早期江戸帰還と徳川宗家に対する減封の最小化を新政府に働きかけてきた。が、この上野戦争における「完勝」は画期となった。江戸を名実ともに掌握した新政府が慶喜の帰還を認めるはずもなく、徳川宗家はまもなく、旧幕府時代の約6分の1にあたる70万石に減封されたうえ、駿河への転封を命じられる。
>>続きを読む

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(5)西郷と勝 慶喜は激怒したのか [■日本の歴史]

【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(5)西郷と勝 慶喜は激怒したのか

江戸無血開城の「点と線」(5)用写真(1)
東京・上野公園の西郷隆盛像。ここは幕末期、徳川慶喜が一時謹慎したほか、彰義隊が立てこもったために起きた上野戦争の舞台となった寛永寺の境内だった。西郷像のすぐ後方には「彰義隊の墓」がある(関厚夫撮影)
「鶴の一声」に泣く
 「なぜ明日の江戸城総攻撃は中止なのか。旧幕府側から勝海舟が出て来たというが、勝の言うとおりにするとはどういうことだ!」
 新政府の東山道先鋒(せんぽう)総督府参謀、板垣退助は東海道先鋒総督府にいた西郷隆盛のもとにそう怒鳴り込んできたという。再び大村藩士で新政府軍幹部の渡辺清の証言だ(『史談会速記録 第68集「江城攻撃中止始末」』)。
 勝・西郷会談が行われた慶応4(後の明治元=1868)年3月14日(旧暦)夜、翌日に迫った江戸城総攻撃は中止-との飛報が臨戦待機中の東山道・北陸道各先鋒総督府に届いた。土佐藩士の板垣は後に自由民権運動の指導者として名を残すが、甲斐(山梨県)で新選組局長だった近藤勇が率いる旧幕府軍を一蹴したことをはじめ、戊辰戦争では輝かしい武功を誇る軍人として知られた。
>>続きを読む

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(4)西郷と勝 慶喜助命は暗黙の了解  [■日本の歴史]

【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(4)西郷と勝 慶喜助命は暗黙の了解 

6日追加分=江戸無血開城の「点と線」(4)用写真(1)
勝海舟と西郷隆盛が会談したと伝えられる池上本門寺・松涛園=東京都大田区(関厚夫撮影)
 700年以上の由緒がある日蓮宗大本山・池上本門寺(東京都大田区)。慶応4(後の明治元=1868)年3月13・14(旧暦)の両日に行われた新政府軍参謀、西郷隆盛と旧幕府軍事取扱、勝海舟との会談が「江戸城攻撃の延期(結果的に中止)」という画期を生み、西郷が新政府首脳との協議のためいったん西に向かった後、この名刹(めいさつ)が、西郷の留守を預かる新政府軍幹部と勝との間で「無血開城」の実務を協議する舞台となった。
 その本門寺では9月初旬の数日間、名園として知られる松涛(しょうとう)園が一般公開されている。江戸開城の直前のことだろうか、慶応4年4月、勝は西郷ともこの松涛園の一角で会談した-と本門寺には伝えられている。
>>続きを読む

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(3)西郷と勝 裏切りに見えた「誠」 [■日本の歴史]

【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(3)西郷と勝 裏切りに見えた「誠」

江戸無血開城の「点と線」(3)用写真(2)
旧田町薩摩藩邸跡に建てられた勝海舟・西郷隆盛会談碑=東京都港区(関厚夫撮影)
 勝海舟夫妻が眠り、東京都下の桜と紅葉の名所・洗足池公園のお隣に7日、大田区立勝海舟記念館がオープンした。歴史的建造物を増・改築した鉄筋コンクリート造り2階(一部3階)建てで床面積は850平方メートル。CG映像をはじめ視覚効果を凝らしたコーナーが並ぶなか、史料展示のメーンはやはり「江戸無血開城」である。西郷隆盛との会談を前に、最後の将軍・徳川慶喜が勝を「千両箱」と持ち上げ、頼りにしていた-と伝える勝の盟友・大久保一翁の書状が初公開されている。
勝の使命-日本人として
 慶応4(後の明治元=1868)年3月13、14日(旧暦)の両日、西郷隆盛との会談にのぞんだ勝は2種類のミッションを自らに課していた。
>>続きを読む

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(2)西郷と勝 虫のよい嘆願 [■日本の歴史]

【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(2)西郷と勝 虫のよい嘆願

江戸無血開城の「点と線」(2)用写真(2)
皇居外苑の楠木正成像(背面から)。この楠公像の視線の先には皇居がある=8月15日、東京都千代田区(関厚夫撮影)
終戦の日、皇居外苑で
 照ったり曇ったり、突風が吹いたり、にわか雨に見舞われたり-と荒れ模様の天気となった今年の終戦の日の東京・皇居外苑。昼前、南東にある楠木正成像や楠公駐車場周辺から、また1キロほど東にある東京駅からの観光客の流れが「二重橋(皇居正門鉄橋)」にのぞむ皇居前広場で一つになるさまはまるで聖地に向かう巡礼の列のようにみえた。
 とはいえ、中国語や韓国語が飛び交い、欧米系の老若男女の姿も目立つ。むしろ日本人のほうが珍しいくらいだった。
 正午。
 二重橋を眺めたり、自撮りや記念撮影に余念がなかったりする観光客の姿は変わらなかった。それまでの違いといえば、かすかにお昼を知らせる鐘かサイレンのような音が聞こえてきたことだけだっただろう。
>>続きを読む

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(1)西郷と勝 悪魔の決意 [■日本の歴史]

【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(1)西郷と勝 悪魔の決意

江戸無血開城の「点と線」(1)用写真(1)
「江戸無血開城」の主役、勝海舟の銅像=東京都墨田区(関厚夫撮影)
 旧暦ではあるが、151年前の今月8日、元号が「慶応」から「明治」へと改められた。近世から近代への画期であり、名実ともに「御代替わり」が完了したことになる。そして昭和20(1945)年のこの日、米国の占領軍が東京に進駐し、それから6年後のこの日、日本と連合国との間で第二次世界大戦を終結させるサンフランシスコ講和条約が調印されるとともに日米安保条約が結ばれている。
 ひそかに日本の近代史を象徴しているこの「9月8日」にちなんで「戦争と平和」をテーマとして考えてみたい。「明治」の礎となった江戸開城における旧幕府代表、勝海舟と東征大総督府下参謀(新政府軍参謀)、西郷隆盛の2人の足跡を歴史の「点」と「線」から追いながら…。(編集委員 関厚夫)
>>続きを読む

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

【続・吉田茂という反省】敗戦によって利益…その“親玉”と“第一の子分”佐藤栄作 東京大空襲を指揮した司令官に“勲章”授け… [■日本の歴史]

【続・吉田茂という反省】敗戦によって利益…その“親玉”と“第一の子分”佐藤栄作 東京大空襲を指揮した司令官に“勲章”授け…

吉田茂氏(右)と、佐藤栄作氏
吉田茂氏(右)と、佐藤栄作氏

 

 敗戦によって利益を得た人たちを「敗戦利得者」というならば、吉田茂はその親分で、その第一の子分は佐藤栄作だったということは、今年6月の集中連載「吉田茂という反省」で述べた。

 振り返ってみると、かの戦争で最も多くの犠牲者を出したのは、1945(昭和20)年8月15日に20歳から35歳だった人たちの世代である。すなわち大正生まれの人たちだった。さらに思い返してみれば、かの戦争はこの8月15日に36歳から60歳までの人たちが日本を動かしていたときに起きた戦争である。

 つまり、かの戦争は明治後半に生まれた人たちが日本を動かしているときに起きた戦争である。

 その動かしていた人たち21万人が占領下で公職追放によって、国家、社会の指導的地位から追われた。そして、その空いたポストに就いた人たちも、実は、8月15日に36歳から60歳までの明治後半に生まれた人たちだった。

>>続きを読む

 

 


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース
前の10件 | - ■日本の歴史 ブログトップ