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【維新150年 高知編(2)】鏡川(高知市)浮かぶ悪童の残像 [歴史]

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2017.2.20 10:00

【維新150年 高知編(2)】鏡川(高知市)浮かぶ悪童の残像

天神大橋から眺めた鏡川。江戸末期、板垣退助や後藤象二郎、坂本龍馬らの遊び場だった  

 吹きつける雨のために、茶褐色に濁った鏡川の川面はうねるように流れていた。天神大橋から眺めたが、対岸の筆(ひつ)山(ざん)の稜(りょう)線(せん)は灰褐色の大気に溶けこみ、かすんでいた。藩主・山内家の代々の墓所があり、高知の市街地も見おろせるというので、登ってみようかと思ったが、雨がきつくなったのでやめた。

 母方の実家が左岸沿いにあった作家・安岡章太郎はあたりの風景を、中編『鏡川』のなかで、「眼の下一面、桑畑が青い葉を繁らせてひろがっており、その向うに鏡川の流れが桑の葉ごしにチカチカと光って見え」た、と書いている。一幅の絵のような眺めだったのであろうが、眼前の眺めからは想像することもできない。

 江戸期、鏡川の河川敷は子供たちの遊び場だった。水泳や相撲などに興じた。天神橋のあたりは、もっぱら「上(じょう)士(し)」の子供たちの遊び場で、坂本龍馬ら「下(か)士(し)」や町人の子供たちは上流の月の瀬橋あたりで遊んだらしい。

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暗殺5日前に書いた「龍馬」の書状ぜよ!「新国家」へ思い熱く綴る…越前藩に人材派遣要求 高知県発表 [歴史]

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2017.1.13 13:01

暗殺5日前に書いた「龍馬」の書状ぜよ!「新国家」へ思い熱く綴る…越前藩に人材派遣要求 高知県発表

新たに見つかった坂本龍馬の書状の一部。右から3行目に「新国家」の文字が確認できる(isana提供)

 慶応3(1867)年11月15日に暗殺された坂本龍馬が亡くなる5日前に書いた手紙が見つかり、高知県が13日、発表した。越前藩の重臣宛てで、新政府設立に向けた人材派遣を求める内容。「新国家」という言葉を使って説得するなど、龍馬が新政府設立の根回しに奔走した姿がうかがえる貴重な史料という。

 幕末関連の歴史史料を探していた県が見つけ、京都国立博物館などが筆跡や内容などから龍馬のものと断定した。

 「一筆啓上仕候」で始まる手紙(縦16センチ、横92センチ)は11月10日の日付でその下に「龍馬」の署名もあり、大政奉還後の新政府の財政担当者として、越前藩士、三岡八郎(後の由利公正)を差し出してほしいと、同藩の重臣・中根雪江に懇願する内容。三岡の派遣について「急を要すること」とし「三岡の上京が一日先になったら新国家の家計(財政)の成立が一日先になってしまう」と訴えていた。

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タグ:坂本龍馬
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【本郷和人の日本史ナナメ読み】大坂の陣と後藤又兵衛(下)古文書精査で報道との相違点が…又兵衛の首はどこへ? 2人の小姓はいたのか? [歴史]

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2016.12.8 11:30

【本郷和人の日本史ナナメ読み】大坂の陣と後藤又兵衛(下)古文書精査で報道との相違点が…又兵衛の首はどこへ? 2人の小姓はいたのか?

後藤又兵衛の討ち死にを豊臣秀頼に報告している場面を示した「書付『後藤又兵衛討死之時』」

 すいません! 最近、あやまってばかりいるようだけれど、もう一度。ごめんなさい!

 何のことかというとですね、先週の後藤又兵衛の最期を伝える古文書です。ぼくは現物を確認することをしないで、各紙の報道を参考にコラムの記事を書いたのです。まあ、さすがに誤りはないだろう、と。…甘かった。今回、古文書の写真を入手して読んでみたら、「ええっ!」。各紙の報道と異なることが出てきたんですね。

 というわけで、まずは古文書を読み下します。脇指し、脇差し、のように字が異なるのは、原文書に忠実に書いているためです。

 一、後藤又兵衛討ち死の時、秀頼公より拝領の脇指し-行光-、是(これ)にて又兵衛首を討ち、秀頼公御前にて、かくの如く討ち死つかまつる次第申し上げ候へ、と申し候、長四郎と申す児姓(こしょう)に脇指し相渡し、申され候、長四郎脇指し請け取り候へども、又兵衛印(首級(しるし)のあて字だろう)をあげ候(そうろう)義(ぎ)は罷(まか)りならず、脇差しばかり、秀頼公へ差し上げ申し候事、

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【本郷和人の日本史ナナメ読み】大坂の陣と後藤又兵衛(上) 最期の描写、実は講談が正しかった [歴史]

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2016.12.1 07:46

【本郷和人の日本史ナナメ読み】大坂の陣と後藤又兵衛(上) 最期の描写、実は講談が正しかった

  

 11月18日の本紙(東京版)が報じるところによると、大坂の陣で奮戦した後藤又兵衛の最期の様子を詳細に報告する、新しい史料が見つかったそうです。史料の発見者は岡山県立博物館。又兵衛の配下として戦った金万平右衛門という武士の子孫が所有していた「一、後藤又兵衛討死之時」と書き出すメモ書きを解読したところ、腰に銃撃を受けて瀕死(ひんし)の重傷を負った又兵衛は、部下に命じて、秀頼から拝領した行光の短刀で首を打たせたことがわかりました。ちなみに行光は、名刀の代名詞である、あの正宗の父と伝えられる名工です。

 又兵衛の最期について、『難波戦記』シリーズは、腰を撃たれ歩行不能になったために部下に命じて首を打たせた、という。一方で『武功雑記』は、松平忠明(家康の長女・亀姫の子)配下の山田十郎兵衛という武士が又兵衛を討ち取ったとしている。『難波戦記』シリーズは、庶民に大好評を博した講談のタネ本です。『武功雑記』は肥前・平戸藩の4代藩主、松浦鎮信(まつら・しげのぶ)が記した伝記で、元禄9(1696)年に成立している。史料的には後者の方が信頼できそうな気がしていたのですが、なんと実は、前者が正しいことが今回の発見で判明したわけですね。

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【本郷和人の日本史ナナメ読み】再びオランダ史料の謎を追う(下) 豊臣政権の「大名」は江戸期と違っていた? [歴史]

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2016.11.10 07:12

【本郷和人の日本史ナナメ読み】再びオランダ史料の謎を追う(下) 豊臣政権の「大名」は江戸期と違っていた?

細川忠興像(模本、東大史料編纂所蔵)

 オランダ人が聞いた話。(1)「大坂夏の陣の最終局面で」(2)「豊臣陣営に属する大名が」(3)「裏切り行為を働いて」(4)「逆に大坂方によって殺害された」。ぼくは(2)を中心に考察を展開してきたのですが、とんでもない間違いを犯していたのに、数日前に気がつきました。何でこんな初歩的なミスをしたのだろう

 それは何かというと、江戸時代の「大名」概念を、(1)の段階において、無批判に用いてしまったこと。「1万石以上を領している(あるいは、領していた)武士が大名である」という定義に安易に寄りかかってしまった。いや、これは大失敗ですね。(1)の時期(則(すなわ)ち、江戸時代初期)に、そうした定義が既に定着していたかどうか、今のところ、不明と言わざるを得ない。

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【関西の議論】平和な江戸の世は仕事がなかった?甲賀忍者の厳しい“実情”、普段は農民とは…大量の古文書から判明 [歴史]

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2016.11.30 12:00

関西の議論】平和な江戸の世は仕事がなかった?甲賀忍者の厳しい“実情”、普段は農民とは…大量の古文書から判明

自宅の蔵から見つかった古文書を見る渡辺さん=甲賀市  

 年に一度、雇い主の大名の城に出向いて鉄砲の撃ち方を武士に指南するが、普段は地元で農民として暮らす。しかし大名に一大事があれば、すぐに駆けつけて特殊任務にあたり、そのための火術や居合術、忍術を会得している-。「甲賀忍者」で知られる滋賀県甲賀市で見つかった大量の古文書の解読作業を通して、江戸時代にこの地域の地侍が、「御忍役人」としての“裏の顔”を持ちながら生活していた様子などが分かってきた。江戸の平和な世にあって忍びの仕事はほとんどなくなったが、“有事”を見据えて鍛錬を怠らないなど、興味深い暮らしぶりがうかがえる。

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タグ:甲賀忍者
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