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【本郷和人の日本史ナナメ読み】実は謎だらけ、川中島の戦い(上) 上杉謙信「車がかりの陣」は兵種別編成? [歴史]

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【本郷和人の日本史ナナメ読み】実は謎だらけ、川中島の戦い(上) 上杉謙信「車がかりの陣」は兵種別編成?

春日山城跡にある上杉謙信の像=新潟県上越市

 

 前回、永禄4(1561)年の第4次川中島の戦いに言及しました。さて、今回はその詳細に迫りますということで、戦いの様子をペペンペンペン! 調子よく講談調で書き進めていたら「あーっ!」なぜかパソコンが突然の再起動モードに入り、文章が消えてしまいました。ぼくの拙いスキルでは復元はムリ。もう1回書くのはしゃくだし、合戦の経緯の説明はなしでいきます。あまりにも有名な戦いですから、いいですよね。

 でね、武田家の軍師とされる山本勘助は果たして実在したのだろうかとか、そもそも日本に軍師なんてものはいたのかとか、啄木鳥(きつつき)の戦法ってなにそれおいしいのとか、上杉謙信の一騎がけって、いまさら平安時代の戦いじゃないんだから総大将が一人で突撃してどうするよとか、ツッコミどころは盛りだくさんなのですが、今回問題にするのはそこじゃあない。ずばり、「車がかりの陣」です。上杉謙信は「車がかりの陣」をもって「鶴翼の陣」を布(し)いた武田信玄の軍勢に猛攻をかけた、とされていますが、これはいったい何だ?

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【維新150年 高知編(2)】鏡川(高知市)浮かぶ悪童の残像 [歴史]

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2017.2.20 10:00

【維新150年 高知編(2)】鏡川(高知市)浮かぶ悪童の残像

天神大橋から眺めた鏡川。江戸末期、板垣退助や後藤象二郎、坂本龍馬らの遊び場だった  

 吹きつける雨のために、茶褐色に濁った鏡川の川面はうねるように流れていた。天神大橋から眺めたが、対岸の筆(ひつ)山(ざん)の稜(りょう)線(せん)は灰褐色の大気に溶けこみ、かすんでいた。藩主・山内家の代々の墓所があり、高知の市街地も見おろせるというので、登ってみようかと思ったが、雨がきつくなったのでやめた。

 母方の実家が左岸沿いにあった作家・安岡章太郎はあたりの風景を、中編『鏡川』のなかで、「眼の下一面、桑畑が青い葉を繁らせてひろがっており、その向うに鏡川の流れが桑の葉ごしにチカチカと光って見え」た、と書いている。一幅の絵のような眺めだったのであろうが、眼前の眺めからは想像することもできない。

 江戸期、鏡川の河川敷は子供たちの遊び場だった。水泳や相撲などに興じた。天神橋のあたりは、もっぱら「上(じょう)士(し)」の子供たちの遊び場で、坂本龍馬ら「下(か)士(し)」や町人の子供たちは上流の月の瀬橋あたりで遊んだらしい。

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暗殺5日前に書いた「龍馬」の書状ぜよ!「新国家」へ思い熱く綴る…越前藩に人材派遣要求 高知県発表 [歴史]

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2017.1.13 13:01

暗殺5日前に書いた「龍馬」の書状ぜよ!「新国家」へ思い熱く綴る…越前藩に人材派遣要求 高知県発表

新たに見つかった坂本龍馬の書状の一部。右から3行目に「新国家」の文字が確認できる(isana提供)

 慶応3(1867)年11月15日に暗殺された坂本龍馬が亡くなる5日前に書いた手紙が見つかり、高知県が13日、発表した。越前藩の重臣宛てで、新政府設立に向けた人材派遣を求める内容。「新国家」という言葉を使って説得するなど、龍馬が新政府設立の根回しに奔走した姿がうかがえる貴重な史料という。

 幕末関連の歴史史料を探していた県が見つけ、京都国立博物館などが筆跡や内容などから龍馬のものと断定した。

 「一筆啓上仕候」で始まる手紙(縦16センチ、横92センチ)は11月10日の日付でその下に「龍馬」の署名もあり、大政奉還後の新政府の財政担当者として、越前藩士、三岡八郎(後の由利公正)を差し出してほしいと、同藩の重臣・中根雪江に懇願する内容。三岡の派遣について「急を要すること」とし「三岡の上京が一日先になったら新国家の家計(財政)の成立が一日先になってしまう」と訴えていた。

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タグ:坂本龍馬
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【本郷和人の日本史ナナメ読み】大坂の陣と後藤又兵衛(下)古文書精査で報道との相違点が…又兵衛の首はどこへ? 2人の小姓はいたのか? [歴史]

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2016.12.8 11:30

【本郷和人の日本史ナナメ読み】大坂の陣と後藤又兵衛(下)古文書精査で報道との相違点が…又兵衛の首はどこへ? 2人の小姓はいたのか?

後藤又兵衛の討ち死にを豊臣秀頼に報告している場面を示した「書付『後藤又兵衛討死之時』」

 すいません! 最近、あやまってばかりいるようだけれど、もう一度。ごめんなさい!

 何のことかというとですね、先週の後藤又兵衛の最期を伝える古文書です。ぼくは現物を確認することをしないで、各紙の報道を参考にコラムの記事を書いたのです。まあ、さすがに誤りはないだろう、と。…甘かった。今回、古文書の写真を入手して読んでみたら、「ええっ!」。各紙の報道と異なることが出てきたんですね。

 というわけで、まずは古文書を読み下します。脇指し、脇差し、のように字が異なるのは、原文書に忠実に書いているためです。

 一、後藤又兵衛討ち死の時、秀頼公より拝領の脇指し-行光-、是(これ)にて又兵衛首を討ち、秀頼公御前にて、かくの如く討ち死つかまつる次第申し上げ候へ、と申し候、長四郎と申す児姓(こしょう)に脇指し相渡し、申され候、長四郎脇指し請け取り候へども、又兵衛印(首級(しるし)のあて字だろう)をあげ候(そうろう)義(ぎ)は罷(まか)りならず、脇差しばかり、秀頼公へ差し上げ申し候事、

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